レース、人生、人とのつながり

VOL.277 / 278

星野 一義 HOSHINO Kazuyoshi

株式会社ホシノインパル 代表取締役

1947年生まれ。静岡県安倍郡出身。2輪レーサーを経て1969年から4輪レースに転向。2002年にレーシングドライバーを引退するまで国内各カテゴリーのレースで活躍「日本一速い男」の異名をとる。一方株式会社ホシノインパル、有限会社ホシノレーシングの代表取締役としての顔も持つ日本を代表するレーシングドライバー。

HUMAN TALK Vol.277(エンケイニュース2022年1月号に掲載)

「日本一速い男」といわれた熱血漢は日本一義理人情に“熱い”男とエンケイの広告でも最近取り上げられた星野一義。
その速さと義理人情への厚さの原点に迫る。

レース、人生、人とのつながり---[その1]

 俺は安倍川の上流にある村の生まれで、関谷さん(元レーシングドライバー関谷正徳氏)は大井川の上流、本田さん(故・本田宗一郎氏)は天竜川の上流の出身じゃない、だから静岡県の川の上流からは車業界の有名人が輩出されるねって本田さんと笑ってたこともあったよ(笑)。中学生の頃からホンダのベンリィで河原に石を積んでコース作ってモトクロスの真似事をしてた。高校を中退して手に2万円だけ握りしめて東京の「カワサキ・コンバット」というチームに弟子入りしてさ。17歳、18歳と2年間給料無し、休み無しの生活の中で鍛えてもらった。
 オートバイのレーサーを目指してた17歳当時、浜松にあるクシタニさん(株式会社クシタニ)に行ったんだ。当時はまだおかみさんと親父さんでこぢんまりやられている頃でさ、おかみさんが「星野君頑張って、怪我しないようにね」なんて丁寧に採寸してレーシングスーツを作ってくれたんだよね。そんなクシタニさんも今では世界でも有名なメーカーになられてさ、嬉しいよね。

モトクロスライダー時代の星野氏。

日本一“走った”男

 モトクロスでチャンピオンになった後かな、日産の大森分室(現NISMOの前身)から「一度レーシングカーに乗ってみないですか?」ってお誘いがあって、テストに参加したらいいタイムを出したんだよね。それからだよ日産との付き合いは。当時は北野(元)さん、高橋(国光)さん、黒澤(元治)さんが先輩でいてね、走り方なんて誰も教えてくれないから先輩の走りを見て盗むんだ。コーナーに齧り付いて黒澤さんなんかが走るのを見てるわけ。で先輩がテストを終わると「使用後のタイヤでいいから走らせてくれ」って頼み込んでコースインして「こんな感じだったよな」ってコーナーに入ってクラッシュするの(笑)。そうやって速くなった。
 俺は周りの人やメディアから「日本一速い男」って言われたけど、自分ではそんな事一度も思ったことはないよ。でも「日本一走った男」だという自負はある。速くなるためにひたすら走る、機会があったらとにかく走ることをしていた。若い頃はエンジンベンチなんてないからマシンの慣らし運転は全部自分から手を挙げてやらせてもらったし、あらゆるカテゴリーの車のテストもやった。日産がサファリやサザンクロスのラリーに出ている頃も長谷見(昌弘)さんとラリー車のテストで福島に毎月行って走ってた。走っては壊しての繰り返し。でもテストドライバーは壊すのも仕事だから。壊れるから強化すべきポイントも見えてくる。そしてマシンのダメなところはダメだと忖度無しにはっきり言うんだ。走行距離だけは当時のドライバーの中でもトップだったと思うし、ガムシャラに走り続けることで速くなれた。それをさせてくれた日産にはもう感謝しかないですよ。

星野氏の代名詞、カルソニックカラーのR32GT-R。

衝撃的だったR32 GT-R

 今までフォーミュラから箱車までいろんな車に乗ってきたけど、一番思い出に残っている車と言ったらスカイラインのS54BとR32のGT-Rかな。特にR32は思い入れがあるね、あれは凄かった。当時オンロードのレーシングカーといったらFR、FF、MRですよ。「4駆なんてラリーじゃないんだから」って乗るまでは馬鹿にしてたんだけど、「まあ乗ってみてください」って言うから乗ってみたらさ、驚いたね。普通FRでコーナリング中にアクセルをガッと踏んだらパワースライドするでしょ、でもGT-Rはフロントが食いついてグイグイ前に進むわけだよ。もう異次元の感覚でさ、衝撃的だったね。大体1つのコーナーでFRとはコンマ2秒は違う、それがサーキット1周10個のコーナーがあったとしたら何秒速くなる?雨の日なんてもっと差が付くからね、あれは反則的に速かった。そんなR32だけど、前にサーキットでR32、R33、R34と3台並べて乗り比べる機会があったわけ。R32の後にR33に乗ってみると、ちゃんと進化してるんだよね。それからR34に乗ったらこれもまたR33より進化してる。完璧なように見えてもウィークポイントにしっかり手を入れてくるからさ、すごいなあ技術屋さんって。
 そんないろんな技術屋さんに助けられてずっとやってきた。日産はもちろんタイヤメーカーだったらブリヂストンの浜ちゃん(前号掲載の元ブリヂストン浜島裕英氏)とかヘルメットのアライ、もちろんアルミホイールのエンケイ鈴木(順一)社長にも。他にもたくさんの人や企業に助けられてここまで来ることができたし、俺は一度ご恩に感じたら絶対裏切ったり乗り換えたりしないんだよ、それが俺の信条だから。

エンケイとの絆が生まれたインパルの第一号ホイールD-01。

シルエットフォーミュラのシルビア。この車両への装着によりD-01の人気に火が点いた。

HUMAN TALK Vol.278(エンケイニュース2022年2月号に掲載)

レース、人生、人とのつながり---[その2]

 若い頃、レーサーの先輩達を見ていて考えたよ「レーサーで一生食っていけるのかな」って。だから俺はホシノインパルを作ったんだ。ワンボックスカーにホイールを満載して、北海道から順に南へ全国の代理店やショップさん巡りの営業に奔走した。週末になればサーキットでレース、それ以外の平日は全国行脚の日々という毎日。ちょうど30歳を過ぎた頃で、レーサーとして一番忙しかった時期だよ。周りからは「お前、何やってんだ」って言われたし、レースで負ければ「商売なんかやってるから」とも言われた。でも、おかげで人生の基盤ができたし、それがレース活動の糧にもなった。その一歩目を後押ししてくれたのがエンケイの鈴木社長なんだよね。

チームインパルの監督として辣腕を振るう。

失意の中から生まれた名品

 まだ若造だった俺がホイールを作ってもらいたくてエンケイさんを訪問したんだよ。磐田工場だったかな、鈴木社長がTシャツ姿でフォークリフトを転がしててさ「やぁ星野さん、ちょっと待ってて」って汗を拭きながら俺の話を聞いてくれた。それで「よし、わかった!作ろう。じゃあとりあえず世界一の昼飯をご馳走しよう」って昼飯に連れて行ってくれたんだ。で、連れて行かれたのは磐田工場の近所にある小さな定食屋。どんぶり飯の定食を奢ってくれて「な、世界一のご馳走だろ(笑)」って。その時のご飯の味は今でも覚えているけど本当に美味しかったし、そんな若造の話を親身に聞いて快諾してくれた鈴木社長の心意気に惚れたね。
 前回(2014年掲載時)にも言ったけど、ホシノインパルを代表するいわゆる十文字ホイール(D-01)が生まれた経緯には紆余曲折があったんだ。最初にデザインしていたホイールは全く違う形状のものでさ、最終試作をチェックしにエンケイさんに行って見てみたらこれが全くダメだった。愕然としたね、これではダメだって。で、失意に駆られて一人でエンケイ磐田工場の周りにある田んぼの畦道をとぼとぼとタバコを燻らせながら歩いてさ、戻ってみたら試作品が並んでいる部屋に案内されたんだ。鈴木社長が「星野さん、この中から好きなの選んでいいよ」って言ってくれて、その時パッと目に飛び込んできたのがD-01だったんだ。「これをください!」って飛び付いたよ。それがウチの代名詞にまでなり、こんなロングセラーになるとはね、感謝しかないですよ。
 そういうことがあったから俺はお付き合いしていただいているメーカーさんやスポンサーさんを変えない。ホイールだって過去には色々なメーカーさんからお声掛けいただいたこともあるよ。でも俺は変えない、どんなにお金を積まれても変えない、育ててくれた今までの恩返しをしたいから。だからこの前エンケイさんが俺をテーマに広告を作ってくれたのは嬉しかったよね、恩義を恩義で返してもらったみたいでさ。

エンケイが星野氏をテーマに制作した広告。

監督として、社長として

 今は監督として一歩引いた目でレースを見ている。ドライバーへのアドバイスは「ハンドルを右に切ると右に曲がるんだよ」って教えるくらい(笑)。基本的には何も言わない、それは現場の担当者に任せているから。最近のドライバーはチームの和を重んじる子が多くて、メカニックやチームに噛み付くことが少なくなってるな。チームと喧嘩すると来年からシートが無くなるんじゃないかって怖がってる。俺はドライバーからチームへの要求はどんどん言えって言ってる。ただ、走りで手を抜いたら次からはもう乗らなくていいってバッサリ。速いことに妥協しちゃダメだよね。
 ホシノインパルでも俺は一歩引いていて、商品企画やデザインにはそんなに口出しはしないようにしている。昔はやっぱりあーだこーだと口出ししちゃってね。そうすると「仰せの通りに」なるわけだよ。俺もどんどん歳をとるじゃない、するとユーザーである若者との感性のギャップが出てくるし、若いスタッフの感性も生かせない。言われたままやるだけだと成長もしないから。今はスタッフに任せて俺は最終のゴーサインを出すだけだね。信頼して任せる、これが一番難しい(笑)。今まで散々いろんな車を乗りこなしてきたけど、人間のコントロールの方が難しい(笑)。70歳を超えてようやくわかりかけてきた気がするよ。

IMPULでは日産車をベースとしたコンプリートカーもプロデュース。

今でもホイールはインパルの主力商品。

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